和らぎ処

人知が及ばぬ大自然、旅で知る見聞、多様な趣味や興味への関心を強く覚える。

呟き:カタカナ語止めて、漢字新語で論じよう

世の中には、いろいろと憂うべきコトがワンサとあるが…

ホンの少々、見方をずらせると、新たに見えてくるモノがある。

 

例えば身近な日本語…

なぜだか、最近は特に、カタカナ表記の外来語記述がやたらに多くなってきた。

新聞もテレビもカタカナ表記の言葉が溢れている…

読むのは簡単だけど意味不明…なカタカナ言葉の氾濫…

日本語記述なのに日本語らしくない、カタカナ表記が多い日本語文章が蔓延中…

なぜこんなご時世になったのやら…

いつ頃からこんな社会になったのやら…

 

漢字交じりの日本語は語彙も豊富で、文字自体にも情感が漂い、自然描写に優れ、表現力豊かな日本語だ。

カタカナ語にはそれ自体に意味が無く味気ない文字の羅列…

新たな外来語を、新たな日本語に造語して、漢字交じりの情感豊かな日本語で表現したいもの…

それを妨げているのはどこの誰だ…?

どこのどんな組織だ?

真は何…?

 

 

―――― 極力、理解困難なカタカナ語表現を避けよう ――――

 

<始めに>

目まぐるしく変貌する社会の諸現象を、立場を変えて、視点を変えて、論点を変えて、立ち位置を変えて…眺めると、全く異なった姿に気付く場合もある。

 

いずこの国の、いずこの言葉も、その時代を反映した全く新しい概念や事象が生じた時、それを的確に表現し伝達可能な新語を造語してきた。その積み重ねの結果が夫々の言葉の現代語である。

日本語も然り。

 

古来より、その時々の時代を反映し、新たの事象には新たな造語を加えながら、時代と共に徐々に変化している日本語は語彙が豊富で情感豊かな言語だが、最近は時々違和感を覚える場合があり、危惧させられる。

例えば…

最近は、文字にも、言葉にも、やたらとカタカナ表記語が特に増えてきたナ…と。

それも、日本語を話す人々に意味が周知されているとは思われない外来語が、安易にカタカナ表記すれば意味が伝わる日本語になったと思い込んで、古来からの日本語に混じり込ませている。

発信者が意図するカタカナ表記語の”意味”を、不特定の読み手が新しいカタカナ語を、発信者と同じように正しく”理解”できているのだろうか…との懸念も感じつつ、最近の日本語を、別角度から改めて見詰め直してみた。

 

古来より先人達は、お互いの意思疎通を深めるために、社会や文化の変化に対応して新たな言葉を作り上げてきた。時代を反映した新語の登場、時代にそぐわなくなり使われなくなった死語…、それらの積み重ねで今の言語が生きている。

 

社会が新たに変化したり、自然界で新たに発見・発明されても、それらが既存の言葉に合致しない場合、多くは意味合いが近似した既存の言葉を当てはめて表現しようとする場合が少なくない。既存語の意味拡大である。

だが他方では、先人達は、それまでに存在しなかった事象に対して漢字表記の「新語」を造語して新事象に充てたという事例も又少なくない。

 

 

<新語の造語>

社会が大きく変動した「文明開化」の明治維新前後の時期は、新語の造語・普及はどのような社会システムが働いたのだろう…

例えば、医学領域の「解体新書」は、日本語表記への和訳が顕著だと感じる。

数多の新知見に接し、知識欲が高まり、細部の識別に迫られて、五臓六腑の大まかな部位・名称だけではなく、人の身体の細部まで多種の和訳(漢字)で定義した。

現在では「筋肉」だけでも、平滑筋、横紋筋、括約筋、輪状筋、大胸筋、三角筋、棘下筋、広背筋、大臀筋腓腹筋…等と識別され、「血管」、「神経」、「内臓」等も多様な細部の部位まで全てが漢字表記された。学問の顕著な進展により、タマには「ランゲルハンス島」のような例外的なカタカナ表記部位もあるが…

また、新たな物体の出現すると、

例えば「火縄銃」の時代に「鉄砲伝来」で、用途や形状が似た銃器類を、鉄砲、大筒、大砲、小銃、短銃、機関銃、猟銃…と新たな漢字を当てはめて識別した。

「乗り物」では、飛行機、列車、汽車、電車、自動車…という新語を充てた。

だが、ジェット機、ヘリコプター、トロッコ、バス、トラック、タクシー…等はカタカナ表記のまま…

また、形が見えなくても、例えば「電気」分野では、電波、短波、無線、放送、信号、発(受)信、電信、電話…等の漢字表記の言葉が使われた。

だが、ラジオ(ラヂオ)、テレビジョン、ファックスは漢字表記をサボってきた。パーソナルコンピュータ(パソコン)、スマホ、SNS、ネット、ウェブ…等も漢字化断念組か…

電化製品では、冷蔵庫、冷凍庫、扇風機、空調機の漢字があっても、エアコン、レンジ、トースター、ミキサー、アイロン…等はカタカナ表記のまま…

石油、灯油、軽油重油は漢字だが、ガソリン、ガスはカタカナ…

「印刷」対「プリント」はいい勝負か…

 

どうも、最近の製品や手段等なるほど、新外来語の日本語化を手抜きしてカタカナ表記のその場凌ぎの繰り返しで済ませている風潮を感じる。

 

 

<問題点…>

漢字文化の中国は、外来語や新事象にも全てを漢字表記せざるを得ないが、平仮名やカタカナ表記も可能な日本語は、社会の変化が目まぐるしい現代では、現地語発音を安易に表現可能なカタカナを使って現地語をカタカナ表記へ傾く傾向が強いようだ。

 

最近は、このような安易な風潮が増してきたのだろうか…

外来語の漢字表記への努力を諦めたか最近の世情に迎合したか、外国語の安易なカタカナ表記を容認するかのような現代社会の奇妙な雰囲気…

時代が進み、新たなモノや環境に囲まれた世になれば、カタカナ語の羅列を助詞と助動詞で繋いだだけの、カタカナだらけの奇妙な日本語文化が通常の社会になっているのだろうか…

 

そういえば、時代にマッチした、必要な新語の造語について、検討する機関が存在しないようだ。

新事象や新外来語の、漢字表記による日本語化への造語・翻訳作業を専門的に司るような社会システムが皆無のままだったっけ…

これを、誰も指摘しない現代社会システム…  これが問題か…

 

故に、日本語化が未了の新語については、外来語のカタカナ表記とともに漢字案併記化が初期使用者の必須義務化となる社会であるべきかと… このままでは将来の日本語は外来語のカタカナ表記語を「てにをは」の助詞で結ぶだけになりそう…

漢字表記の利点は、文字数の減少、羅列文字に目視的にも意味を認識できることである。

カタカナ表記語は、外来語の意味を知っていれば、全体を読み切って初めてカタカナ語の意味を認識するが、文章自体は無味である。読者が外来語の意味を知らなければ、文章は読めても意味不明な日本語文となろう。

 

 

<現代では…>

そんな社会的容認雰囲気に甘えてか、最近は、複数の外国語をそのままカタカナで長々と表現する言葉も多く耳にするようになってきた。

例えば、”ウェディング  ドレス”、”スタンディング オベーション(standing ovation)”、”アウトレット モール(outlet mall)”、”ソーシャル ディスタンス(social distance)、”セクシャル ハラスメント(sexual harassment)”、ナンバープレート(number plate)、ドラッグストア(drag store)…等々。

 

一字一字に意味を有する漢字なのに、漢字表記の新語があればもっと簡潔に表現できるのに、漢字表記の該当語が存在しないが故に、ダラダラと多数の文字が必要なカタカナ語に、括弧書き脚注を付けて長文化してでも意味伝達のために補足する事例も多々見受ける。

カタカナ表記は無味乾燥な表記法であり、文字数が極端に増える。

カタカナ表記事象の本来の意味を知らなければ、カタカナでは読めても全く意味が伝わらない。つまり、元の外来語の意味を知る者だけが理解できるカタカナ混じりの日本語になる。

漢字表記なら、言語の意味を知らずとも、漢字の一語一語が持つ意味と重ねるとある程度の概念を掴めたり、文章の短文化という利点もある。

漢字混じりの日本語の優れた特徴は、文字数削減や言葉に意味を持たせるという点であろう。

 

だが、安易に多用するカタカナ語、その意図は何だろうか…

博学者っぽい? 格好いい? スマートっぽい? 同義語の日本語が無い? 正確に表記したい? 簡単だから?

 

本来の言語は外国語であり、読み手の大半は意味不明と感じる言葉だ。

カタカナ語の事象が現代の生活に必要で、同義語の日本語が存在しなければ、新たに造語すべきであろう。

そんな原則も又存在しないし、社会的習慣もないし、漢字化への造語検討部署も存在しない。

時代にマッチした新語の造語、その適切性を審議する部署、それらに携わる人材や組織は一体どこの誰なんだろう…?

それとも、現代社会は、外来語はすべてカタカナ表記で不都合無く対応できていると見なしているのだろうか。

必然なのに、問題点は先送り…  それを社会は許容しているかのよう…

 

少なくとも、初期使用の個人が漢字化の例示語を併記する習慣の社会でありたいモノ…

提案語が社会に受け入れられ始めたら徐々に集約化され、定着していくだろう。

 

 

<例えば家族観…>

では、最近の話題で具体的に考えてみよう。

「結婚」という概念にも、LGBTレズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの頭文字の組合わせ)が議論に加わって、複雑化してきた。

だが、ホルモン分泌機能が絡む問題は多様な影響因子の存在が指摘されるが、ここでは論点が異なるので触れない。LGBTの認知度が高まり、社会システムとの軋轢(アツレキ)が生じ始めてくると、既存の日本語での対応力では限界が垣間見えてくるだろう。

 

★既存語の「結婚」に含まれる意味

言葉は目にする事象に対して後から相応しい言葉を造語してきた。

自然界の動物の行為同様に、いつの頃からか、ヒトも社会から認知された異性者同士が新たな生活を共に営む形態と理解されてきたし、その状態に「結婚」という用語を造語した。

ヒトもまた動物なので、その延長線上の生殖行為により、次世代を担うべき新たな生命の誕生があり、家族・種の繁栄に努めてきた。

同様な状態であっても、動物に対しては「つがい」という用語を当てた。

この生命の世代間サイクルは、何も人間固有の現象ではなく、植物や動物の世界でも同様で、生命維持への当然の行為と言えよう。

人間社会はそれを当然の行為として受け入れ、人類は繁栄を遂げてきた。

古来より繰り返されてきたこれらの平均的な人々は、言うならば、「人類繁栄推進論者」か。

 

 

<指摘…>

★いわゆる「同性婚」について

だが近年、個人の自由尊重人権尊重という概念が広く世間に受け入れられ始めてくると、新たな問題点が見えてくる場合がある。

これまで長く使われてきた「結婚」という概念には該当しがたい事例である。

最近よく見聞するようになてきた「同性同士」の組み合わせの呼称は社会認知度が低く、適切な表現語が無く、何かと雑音が多くなってきた。

当事者や関連者の一部には、「同性同士」にも「結婚」の意味を持たせるべしと主張し始めている。

だが、言葉には明確な定義がある。言葉が有する意味を安易に変更すれば社会の混乱を招くだろうし、意味を拡大解釈して曖昧にすることは避けるべきである。

現代社会で無視し得ないほどのその存在感が増したと思える状況なら、結婚類似の「同性同士」の新たな組合わせにはその意味を持った新語を造語すべきである。その上で、新語で新たな法的整備を進めるべきであろう。

他人同士の大人が喜怒哀楽、寝食を共にしながら共同生活する意味を有する「婚」を使う場合を例示してみた。

  「同婚」、「均婚」、「接婚」、「合婚」、「似婚」、「類婚」、「融婚」…。

   さらに狭義では、「男婚」、「女婚」…等。

当事者に性転換施術の有無が加われば、さらに慎重な合議が必要になるかも…

 

現存する類意語の「同居」はさらに広い意味が含まれるので適切でないだろう。

さらに、諸般の事情で婚姻届を出さない「同居婚」も存在する。

 

この問題に、どこの誰が音頭をとり、世論を動かすのだろうか。

 

国語学者、国語審議担当機関は、このような時代の流れへの取り組みを回避したままだ。

故に、「男性同士」、「女性同士」という新たな異質の組み合わせを望む人たちは、社会システムでの「結婚」との同格化を願って、無理にでも「結婚」という既存概念に組み入れられるようにと行動する。その影響で周知されていた「結婚」という概念が揺らぎ始めて種々の混乱が生じ始めてきた。

だが現在の議論は、既存概念に、新概念を包含させるという、論点が異なる課題を同じ土俵上で議論する点にある。

 

< 日本語熟成へ… >

昔から行われてきたように、新たな概念には新たな新語の造語で対応するのが常道では無かろうか。

現代社会は、何も対応できないほど硬直した無能な社会構造なのだろうか。

このような類いの議論すら起こらない、実に奇妙な現代社会…のようだ。

 

新たな事象や新外来語には、提案を兼ねた新語を併記することを常識化させよう。

その後、生まれた複数の新語を集約し、新概念を定着させる方向性が常識化してくればカタカナ語だらけの日本語の混乱という将来への懸念が薄らぐようになるだろう。

そのような世論形成が望まれる。

諸外国では、外来語を自国語で表現しているのだろうか…